平成が終わる前に、年明けの仕事が始まり労働に明け暮れる前に、何かを書き残す必要があると思いました。昨今、読んで、触れて、感動したコンテンツから、ざっくり感想やら抱負やらを書きました。以下タイトルのネタバレを含みますのでご注意お願いいたします。
一つは宮部みゆき著の「火車」、二つ目は、アニメ「魔法少女まどか☆マギカ」更に、一週間ほど前に読んだ、中田考著の「みんな違ってみんなダメ」これらの作品に触れて、ほぼ同じテーマを扱っているように感じました。それは「だまされるな」ということです。もっと言えば、「変わりたがる弱者を利用する強者」の構図に対する問題提起です。
「火車」から読み取る「だまされるな」

まず「火車」から
この作品は、捜査ミステリーの王道と言うべきでしょうか休職中の警察官が、行方不明の女性を探すという筋書きの中で、次第に隠された真実が明らかになります。この本の伝えたいこととして、借金の怖さを上げる人が多いと思います。借金が怖いということもですが、借金に至ってしまう人の弱さや動機、そこに漬け込むシステムの卑怯さを描写している作品です。この本の中で、こんな文章があります。
「あのね、蛇が脱皮するの、どうしてだか知ってます?」
「脱皮っていうのは――」
「皮を脱いでいくでしょ?あれ、命懸けなんですってね。すごいエネルギーが要るんでしょう。それでも、そんなことやってる。どうしてだかわかります?」
本間よりも先に、保が答えた。「成長するためじゃないですか」
富美恵は笑った。「いいえ、一生懸命、何度も何度も脱皮しているうちに、いつかは足が生えてくるって信じてるからなんですってさ。今度こそ、今度こそ、ってね」
べつにいいじゃないのね、足なんか生えてこなくても。蛇なんだからさ。立派に蛇なんだから。富美恵は呟いた。
「だけど、蛇は思ってるの。足があるほうがいい。足があるほうが幸せだって。…この世の中には、足は欲しいけど、脱皮に疲れてしまったり、怠け者だったり、脱皮の仕方を知らない蛇は、いっぱいいるわけよ。そういう蛇に、足があるように映る鏡を売りつける賢い蛇もいるというわけ。そして、借金してもその鏡がほしいと思う蛇もいるんですよ。」
「足がある方が幸せだと思い込む蛇」を借金により死んだ登場人物、「足があるように映る鏡を売りつける蛇」を搾取する側だと比喩している文章です。「弱者が足を求める気持ちや動機」に寄り添った小説ではありますが、これらを要約して「だまされるな」というメッセージだと受け取っています。
「魔法少女まどか☆マギカ」から読み取る「だまされるな」

続いて「魔法少女まどか☆マギカ」です。この作品の中には、多様なテーマが含まれているのですが、「だまされるな」というメッセージを何処から読み取ったかという部分に焦点を当てて書きます。
この作品を何の前情報もなく、絵柄や1話の内容を見ると、女子中学生が魔法少女となって家族や町のために奔走するアニメだと思うのではないでしょうか。しかしそういう類いのアニメとは、全く別のカテゴリに属するアニメです。
ネタバレになりますが、物語の初期の展開である、女子中学生が魔法少女になって魔女と戦うことは、決して彼女たちを長期的に幸せにはせず、必ず絶望が待っています。そして、その絶望で食ってる輩がいるということがこの物語の後半で暴かれていきます。
このアニメの魔法少女にはいくつかのルールがあります
- 魔法少女になるときに、一つの奇跡を起こせる。
- 魔法少女には、自分からならなくてはいけない。(他者が無理矢理魔法少女にすることは出来ない)
主人公らのキャラクター5人が、魔法少女になるときには、それぞれ「実現したい何か」があります。そしてそのために奇跡を望み、魔法少女になっていきます。彼女らは、小説の「火車」で言うと、蛇に足を生やそうとして、奇跡を頼るのです。
しかし彼女たちに待っているのは絶望です。奇跡を起こして足が生えたはずなのに、どうして絶望するのか?という部分は、このアニメの主要なテーマでもあるのですが、一旦割愛いたします。
このアニメがそのまま「火車」だと思う点として、以下の台詞をあげます。1話に、すべてを知る登場人物の一人「ほむら」が、ヒロインに向かって言う台詞です。
「あなたは自分の人生が、尊いと思う?家族や友達を大切にしてる?」
大切だと答えるヒロインに、更にこのように言います。
「もしそれが本当なら、今とは違う自分になろうだなんて、絶対に思わないことね。さもなければ、すべてを失うことになる。あなたは、鹿目まどかのままでいればいい、今まで通り、これからも」
この言葉は、「火車」の文中の、「べつにいいじゃないの、足なんか生えてこなくても。立派に蛇なんだから」という言葉と意味合いがそのまま重なります。
「今とは違う自分になろう」と思うヒロイン「まどか」の気持ちは、黒幕であるキューべーに利用されてしまうことが、「ほむら」には分かっています。それを避けるためにも、このような台詞をいうのですが、世界観は違えど、弱者が変わりたがる事実とそれを利用する強者という構図は変わりません。
もっと直接的な台詞でいえば、「ほむら」はヒロイン「まどか」が死ぬ直前に、「キューベーにだまされる前のバカな私を助けて」と依頼されています。「ほむら」に至ってはその願いを叶うべく複数の世界線を奔走しますが、しかし、ヒロイン「まどか」はいくつもの世界線で騙され続けます。これは、どの世界線でも、まどかが無能な自分を恥じ、変わろうとするからなのです。そして、ほむらは最後まで彼女のその意識を変えることは出来ませんでした。「今とは違う自分にならなくてもいい」(だから無事でいてほしい)ほむらは何よりも先に彼女に伝えるのですが、彼女には届きません。
「みんなちがって、みんなダメ」から読み取る「だまされるな」

最後に、「みんな違ってみんなダメ」という本についてです。著者の中田考は、イスラム教の学者で、内容はイスラム教に基づいた人生論です。
この著の中では、弱者がミミズに例えられています。
ミミズなのにヘビだと勘違いしているから不幸になる。でも、世間では逆のことを言います。「あなたは本当はタカなのにヒヨコだと思っている」などと言って自我を肥大させることで、かえって人は不幸になるんです
本文より
小説「火車」では足を欲しがるヘビに例えられた弱者が、こちらでは蛇になりたがるミミズに例えられています。ここにも変わりたがる弱者とそれを利用する強者(本の中では資本主義等のシステム)に対しての指摘があることは、上記の2作品と共通しています。「今と違う自分になろう」という自我を煽り、物を買わせることによって食ってる輩がいるということです。
「成長」と「自己肯定」の間でもがく
これらの作品は、ジャンルは違えど、親心にも近い、「だまされるな」というメッセージを感じます。
このような、3つの作品を通して見てきたテーマを「変わりたがる弱者・利用する強者」問題とします。
この問題に対して、結論的なものは出てないのではないでしょうか。「ありのままでいい」という歌詞の歌が流行る一方「ありのままでは成長しない」という正論を誰もが認識しており、どちらが正しいという話ではないにしろ、「自己肯定」と「成長重視」の両極端な価値観をどのように共存させたら良いのか分からなくなってきます。
まとめ
現状自分の意見としては、死なない程度でだまされることは、あっても良いのではないかということです。なぜなら、「みんな違ってみんなダメ」を仮に前提とするならば、加えて「みんなヒマ」だからです。
みんな時間が有り余っているのだと言いたい訳ではなく、身分相応に生きるだけでは面白みも無く、なによりも暇だということです。
谷崎潤一郎に「痴人の愛」という作品があります。
この小説の主人公は、10も年下の恋人「ナオミ」に浮気され、騙されるのですが、このとき主人公が言う台詞の一つに「若いうちに一度は、ああいう女にだまされるのもいい」というものがあります。
若いうちに一度、とならないのがこの作品なのですが、仮に主人公が騙されないで一生を終えたとして、その一生が幸せかと考えると難しいものがあります。
元々砂を噛むような日常を生きていた主人公です。つまらない日常が尊いということは確認するまでも無いことで、しかしながら、尊いけども、その尊さを噛みしめるだけの人生は、何よりも暇だということです。
25歳が終わる前に一度自分の頭を区切りたいと思っています。それは、「だまされるな」というメッセージに感動することは2018年で終わりにしようということです。
2019年からは、それらの親心の暖かさに心を温めつつ、どのように他者の嘘に乗っかり、騙されれば、楽しいか、後味がよいか、ネタに出来るかということ、考えて生きていきます。それが、良くも悪くも大人になるということではないかと考え始めるようになってきました。死なない程度に、だまされて、成長と肯定の行き来をしたいと感じます。