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奇をてらう について考える

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「美大の試験を受けるにあたって、奇をてらった構図にしない方が良い。採点者にウケる可能性は低いし、多くの場合落ちる」

 

これは高校の美術教師に言われた言葉だ。構図とは?と思う人も多いだろう。構図とは画面の構成といいかえると分かりやすいかもしれない。この言葉は高校生の頃、美大受験のためデッサンを見てもらっていたときの言われたことだ。(ちなみに結局美大は受けず、デッサンの試験を受けることもなかった)採点というのは、美大の受験時の採点のことを指す。もらったお題は「3つの紙コップを描くこと」だった。

 

デッサンの試験では下の画像のように与えられた課題に対してランダムに奥行を持たせることが一般的だ。一方上の画像のように並べたり重ねたりするのはデッサンとしては変な構図となる。

 
 

変な構図・奇をてらった構図

 

一般的な構図

 

私は最初上の、いわゆる「奇をてらった構図」を描いて持って行った。そして美術教師の忠告を漠然と受け取って、その後は下のような構図を描くようになった。

 

そのとき美術教師は、試験における一般的な常識を親切で教えてくれたのだと思う。(そういうことを教えてくれる人は有難い)その時は言語化できなかったが、その時の私の気持は「別に目立ちたい・点数を得たいという気持ちで、奇をてらうわけではないのだけど・・・」というものだった。普通は、自分の為に奇をてらうというのが一般的な考え方らしい。でも、あくまで自分のために奇をてらったことなんて無いのだ、というぼんやりとした気持ちがあった。

その時のぼんやりした気持ちが言語化されたのは、数年後に太宰治の「如是我聞」を読んだときだ。

特に分かりやすいところを添付する。

如是我聞

 

ここでは太宰治が、自分の小説は「心づくし」で描いている、と言っている。一方で読者の顔を想定せず面白くもない小難しいことばかりを描く作家は「心づくし」が足りず、粋ではない。と言いたいらしい(完璧な理解ではないかもしれない)

 

太宰の小説は、奇をてらったものが多い。現代でもそうなのだから刊行された当時は相当だろう。小説の冒頭も風変りな一文を挿入してくるように思える。

要約すると、面白おかしく小説を書く行為=「奇をてらう」行為は、実際には「心づくし」であり読者サービスなのだという主張だ

 

どうして奇をてらう事が「サービス」で「心づくし」なんだ?目立ちたいだけだろう?そういった反論があるかもしれない。風変りな事に対して、いわゆる「出しゃばり」「才能が無い奴ほど奇をてらう」と冷ややかな目をする人が一定数居るのだと分かっている

 

分かっているけれども、自分の中に飼っているピエロが目の前の人が退屈そうな顔をしていると出しゃばって来るのだ。(太宰と自分を並べるのは、あまりにも滑稽だけど)その結果、何かしなくちゃいけない気になって「奇をてらった行為」に走る。そしてその根本は、サービス精神であり、文中の言葉を借りるなら「心づくし」だ。レベルが低すぎて形になっていないだけで。それは自分にとっては人の為に必死になってやってる事で、サービス精神なのである。いや、人の為と書いて「偽」と読むくらいだから、やはり自己保身など自分の為かもしれない。自分でも分からない。

 

このあたりの堂々巡りは太宰が小説でいっぱい書いていることだ。
 
 

太宰が「心づくし」を料理で例えたので、同じようにすると、私の料理は顔の見える相手にのみふるまえるレベルだということだ。例えば家庭でいつも食べている肉じゃがでも、不特定多数にふるまえるレベルかと言われると違うだろう。

 

主婦としての私の料理と、不特定多数の人間に料理をふるまうという調理人がやる料理とはまったく別次元のものだ。夫の為に料理することは、客体メインの行為である。(夫の好きな味付けを常に意識するなど)

一方、不特定多数に料理をふるまうということは、主体がメインにならざるを得ない。客体が不明なのだから。不在ではなくて不明なのだ。要するに、不特定多数にふるまわれた客体メインのサービスというのは、公園の中心にお母さんの肉じゃがを置いておくようなものだ。通りすがりにそれを食べて、美味しいと言う人も居るだろうし、まずいと言う人も居る。

 

ここまでの話をまとめると(同意されるかはともかく)奇をてらうことも料理も両方サービスのメタファーであるということだ

 

サービスというと、スーパーの出血大サービスなど思い浮かべるが、あれは厳密にはサービスではない。値下げだ。値下げも含めて売り上げ予想をしているのだから戦略の一つだ。サービスと言うのは「無くてもいい」ことが前提にある。映画でシリアスな展開が続きがちなところに監督がギャグを挟むとか、駅中に作られるベンチもそうだ、本来無くても成り立つ。

 

そして、奇をてらうというのも、料理を作るのも、もっと言えば絵や文章を書くのだって、私にとって神聖な事ではない。一番近いのは、水族館でオットセイがビーチボールでお手玉をするあれと同じだ。芸人属性とでも言うのか、心の中のピエロが出しゃばるか出しゃばらないかの違いなのだ。

この話のまとめとして、やはり客体の顔が見えないところではピエロになるのは辞めた方が良いということだ。それは高校教師が言った「変な構図は採点者にウケない」というアドバイスと同じで、顔の見えない相手に奇をてらっても外すことが多い。念入りに読者の反応を想定して奇をてらった文章を書いた結果、時代を超えてもそのサービス精神が尊ばれることもある。太宰治はその典型だろう。それが出来るのは才能のあるものだけだ。太宰のように。

 

ちなみに自分の兄は、奇をてらうことは無い。だから外すこともない。飲み会の場で踊ることは無いし、話に強引におちをつけることもしない。ボケることもしない。しなくてもいいと思っている。そんなことして何になる?と思っている。それは私にとって羨ましい。でも兄のように成りたいか?と問われると返答に迷うのだ。ピエロの根性が染みついて離れない。

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