嬉しくない誕生日
「大人になると、誕生日が嬉しくなくなる」小さい頃身の回りの大人が口にしていた言葉だ。小学生の私は、嘘だと思っていた。大人が照れ隠しをして言ってるだけだと思っていた。なぜなら小学生の私にとって誕生日というのは超ド級に喜びの塊のイベントだったのだ。プレゼント、ごちそう、ケーキ、お祝いムード。大人になったからといって嬉しくない訳が無い。そう思っていた。
私事になるが、先日30歳の誕生日を迎えた。嬉しくなかった。むしろアラサーになったという絶望感でいっぱいだった。
そういえば、歴代の伝説的なミュージシャンには30手前で自死を選ぶ人が多い気がする。本当は名前を列挙したいけど、時間が無いのでやめる。
自分が感じる年齢への絶望感というのを分解すると、いくつかの要素に分かれることに気が付く。大きく分けて、①労働への絶望②健康への絶望③人間関係への絶望④パフォーマンスへの絶望などと言えるだろうか。
①番の労働への絶望は、もしかしたら説明不要かもしれない。30歳から60歳の30年間は、労働真っ盛りの年齢だ。労働することが嫌な私にとってこれほどの絶望は無い今まで生きてきた30年を振り返ると、24歳で就職して、育休などを感がみると実際労働したのは5年そこらだ。そしてその期間も様々な部署を回りいわゆる新人として扱われ、主戦力ではなかった。ほぼ働いてないに等しい。人生の前半に子供時代という黄金の労働免除期間を過ごし、とうとうその対価を払うときが来たと言う感じだ。長い間ゴネていた借金返済を迫られるような、何とも言い難い絶望だ。
②番の健康への絶望も、説明不要ではないか。30歳で絶望するのはいささか早すぎるかもしれない。しかし、目が、腰が、腸が、少しずつ弱っていくことが分かる。ゲームのポケモンならば、ポケモンセンターに行けば傷ついたHP(ヒットポイント)は簡単に復活する。しかし現実ではそう簡単に100%元通りはいかない。傷ついた体をだましだまし使って生きていく。自分の場合特に視力の衰えが恐ろしい。10代の頃からゲームばかりしてきたツケだろうか。この視力はもう二度と自然には戻らないのだと思うと心細い気持ちになる。
③番は人間関係への絶望だ。若いということは黄金のパスポートを持っているようなもので、若者間では軽やかなコミニケーションが行われるし、若者対大人でも将来の投資として親切な大人も多い。それがどうだろう、30歳。人付き合いにおいて、壁を感じる。誰かに何か教えをこうても「其の齢でそんなことも知らないのか」という棘を感じる。そういった「お互いに、いい大人だろう」という一種のけん制のようなものを乗り越えてコミュニケーションを図っていく難しさ。これも絶望の一種だろう。
④番のパフォーマンスへの絶望。20代であれば徹夜で提出していた成果物も、そんな無理はきかなくなるといったことだ。本当はチームで褒められたいし、意外とデキルやつだと驚かせたい。でもそれは叶わない。悲しい。男性がEDにおびえるのと近い感情かもしれない。
諦めによる身軽さと心地よさ
一方希望について考えると、3つの希望が見つかった。
希望①[より能動的に生きられる」希望②「自立による自由」希望③「諦め」
①番の希望は、より一層の能動性だ。20代の自分は人の顔を見れば尻尾をふっていた。いわゆる八方美人だった。いわゆる親や世間の価値観を妄信して「すべての人間と仲良くしなければならない」と一種の強迫観念を持っていた。しかしその魔法はもう溶けた。自分には自分の価値観があることをやっとこさ掴みかけてきたのだ。
服装で例えるのが分かりやすいだろう。今まで自分は「どんな服が好き?」「どんなテキスタイルが好き?」と考えたことも無かったのだ。服と言えばTPO。人間関係を円滑にする道具としての衣服という認識しかなかった。そういった思考は効率的かもしれないけど貧しい。何より楽しくないのだ。「すべての人と仲良くしなければならない」という強迫観念が溶けたから、自分が本当に好きな友達を遊びに誘い、好きな服を着て出かけられるのだと思う。服以外にも、料理、家具、読書、そのほか様々な要素を、もう一度選ぶ楽しさがあるはずだ。
②番の希望は、自立と自由だ。具体的には、親元を離れて親の顔色を伺わなくて良くなったことで、私の自立・自由ポイントが大きく伸びた(ような気がする)。いわゆるフランス政権下だったカンボジアが、その後初めて自治を得たようなものなのだ。ポルポトのように暴走するか否か?私の一挙一動が問われているのだ。この状況を希望というのはいささか楽観的かもしれない。でも裁量があることの喜びが確かに自分の心を満たしている。
③番の希望は、諦めだ。出世・恋愛・玉の輿…?20代の頃は可能性を捨てる選択肢を取ることが難しかった。上司に飲みに誘われたら断るのは難しかった。資格の本を捨てられなかったので、TOEICのテキストがクローゼットの一角を占めていた。今は諦めの30歳を迎え、クローゼットのTOEICの本は捨てた。風通しが良くなり人間らしい生活になる。これも自己研磨の一つの道を閉ざしたのだから、希望というのは楽観的かもしれない。ただ実感としては、可能性にがんじがらめになっていた20代よりも今のほうが心地良いのだ。
まとめ
早い人はもっと早くに精神的な自立を迎えるのだろうが、私の場合今からなのだ。大学生の頃は門限があり親の管理下の元の学生生活だった。本当の絶望はチャレンジしなかった20代にあるのかもしれない。